第2回大阪大学企業コンプライアンス研究会概要
2008年8月7日(木)16時30分から19時まで、大阪大学大学院法学研究科大会議室(法経総合研究棟4F)にて、第2回大阪大学企業コンプライアンス研究会が開催されました。基調報告はコンプライアンス研究センターの郷原信郎弁護士。郷原先生は言うまでもなくわが国におけるコンプライアンス研究の第一人者です。報告タイトルは「フルセット・コンプライアンスを考える」。比較的少人数の研究会でしたが、充実した議論を行うことができました。 郷原先生は、「法令遵守が日本を滅ぼす/コンプライアンスが日本を救う」という著書タイトルに用いられたフレーズの紹介から報告をはじめられました。ここで郷原先生が強調されたのは、まず「コンプライアンス>法令遵守」ということ、そして「遵守」という言葉が盲目的遵守をもたらしやすいという問題点でした。「法令遵守」が語られる場合には、枝葉末節にばかり関心が行き、基本原則や法目的といった肝心な問題から注意が外れてしまうという結果になりやすいというのです。
日本では司法は社会の周辺でしか機能していません。司法は、特殊な問題を特殊なやり方で解決するものとしてしか認識されていないというのです。他方、アメリカでは、司法は社会の中心に関わるものと考えられています。日常的な問題が司法的に処理されるのです。喩えるなら、アメリカの司法は文化包丁であるのに対して、日本の司法は伝家の宝刀です。伝家の宝刀は使われないところに意味があります。そのような法文化に慣れ親しんできたところに「法化社会」が浸透してきたために、社会の周辺でしか使われなかった司法が次第に中心でも頻繁に使われるようになってきたというのが、今日の日本の現状だというのです。日本の日常になじまない司法が頻繁に使われるというのですから、人々が抵抗を感じるのは当然とも思えます。
実態と乖離した法令を形式的に遵守させようとすれば、企業はまともな活動ができなくなり、社会は混乱に陥ります。そこで、法令遵守は、まずもって社会的要請と合致するのでなければなりません。しかし、日本の場合には法令を守ることはしばしば社会的要請と合致していません。これでは、法令遵守が徹底されればされるほど社会がうまく機能しなくなってしまいます。「法令遵守が日本を滅ぼす」と言われるゆえんです。
郷原先生によれば、コンプライアンスとは、組織に向けられた社会的要請にしなやかに鋭敏に反応し、目的を実現していくことなのだそうです。そこでは、社会的要請に対する鋭敏さ(Sensitivity)と目的実現に向けての協働関係(collaboration)が強く求められます。そして、社会的要請に組織がどのように適応していくか、複数の社会的要請にいかにしてバランスよく適応していくかを考える視点が「フルセット・コンプライアンス」です。コンプライアンスは、個々バラバラな「点」としてではなく、複数の要素からなる「面」として理解されなければならないとされます。
フルセット・コンプライアンスとは、「方針の明確化」「組織の構築」「予防的コンプライアンス」「治療的コンプライアンス」「環境整備コンプライアンス」という5つの要素をフルセットで実現することだとされます(上図を参照)。まず「方針の明確化」はコンプライアンスの最も大切な要素です。社会的要請に合わせて組織の方針が立てられなければコンプライアンスは始まりません。次に、そのようにして立てられた方針に従って組織が構築されなければなりません。さらに、方針の実現に向けて組織全体を機能させるようにするのが予防的コンプライアンスです。そして、不祥事が発生してしまった場合に原因究明を行い適切な対応を行うのが治療的コンプライアンスです。最後に、不祥事がそもそも起きない環境整備を行うのが環境整備コンプライアンスです。
郷原先生は、日本においてコンプライアンスを実現することがいかに困難かを考えるための例として、違法行為の二つの類型を挙げられます。すなわち、アメリカにおける違法行為はいわば「ムシ」だとされます。ムシは取り除けば、それで問題は解消します。これに対して、日本の違法行為はいわば「カビ」だと言われます。カビは目に見えるところだけではなく、内側に大きく広がっているのが特徴です。一つの違法行為の背景に構造的問題が潜んでいるというわけです。カビ型の違法行為を誤って個別の違法行為として処理すると、カビの被害はどんどん広がっていき、収拾が付かない事態に陥ってしまいます。わが国においてコンプライアンスに取り組むことがいかに困難かが窺われます。
さらに、郷原先生は、コンプライアンスに関連する概念として、リスクマネジメントとクライシスマネジメントを挙げ、両者の違いを説明されます。リスクマネジメントは平時におけるリスク対応で、リスクの顕在化を予防することです。これに対して、クライシスマネジメントとは、危機的状況において損失を最小限に食い止めるための活動を言います。クライシスマネジメントの場面では、コンプライアンスの問題が最も凝縮された形で表れてきます。ここで重要なことは、「責任」にどう対応するかです。クライシスマネジメントにおいては、「社会的責任>法的責任」という考えのもとに問題を処理することが求められます。そこでは、まず事実を徹底的に調査し、原因究明を行い、その原因究明に基づいて社会的要請にマッチした適切なマスコミ対応を行うことが求められます。十分な原因究明を行わずに社会的要請とミスマッチなマスコミ対応を行うと、会社の社会的評価が大きく損なわれ、会社に壊滅的なダメージを与えることになります。しかし、このような対応をアドバイスできる法曹はまだまだ少ないとされます。多くの法曹は、つい法的責任の追及に目がいき、肝心の原因究明をおろそかさせてしまいます。クライシスマネジメントが拙劣であったために会社が壊滅的ダメージを受けたのが不二家です。不二家問題の核心は、食品に対する社会的要請のトレンドが安全から安心に移行していることを見誤り、基準違反の事実ばかりに目くじらを立て、消費者を安心させるための適切なメッセージを出さなかったことにあるとされます。
報告の最後に当たり、郷原先生は、社会の変化を適切に読み取る方法として、上図のような法令環境マップを提示されました。社会の変化は法令の変化に表れます。競争環境の変化は競争法に表れ、情報環境の変化は個人情報保護法に表れます。金融環境の変化は金融商品取引法に表れます。企業活動にとってとりわけ重要なのは事業法です。事業法には目的規定があり、そこから企業の行うべき指針が読み取られます。法曹は、事業法の目的規定と他の関係法令の諸目的とが整合的であるように、企業の具体的な活動指針を示すことができなければなりません。郷原先生は、法令環境マップの使い方を示すために、新日本監査法人元職員インサイダー取引事件を例として挙げられました。この事件の背景は、関係法令である金融商品取引法、監査法人法、公認会計士法から読み取ることができるのだそうです。それらの法令から、監査法人の役割は、内部的立場から外部的立場に役割がシフトしているということが読み取られます。この変化は、企業監査の需要を増大させ、監査法人の大規模化を引き起こしました。監査法人が大規模化し、少数の大規模監査法人に企業情報が集中する一方、監査法人内での公認会計士の労働環境は激変し、末端まで管理が行き届かなくなってしまいました。この結果、新日本監査法人元職員インサイダー取引事件は起こるべくして起こったというのです。
フロアとのディスカッションの詳細は紹介できません。印象に残った質問を挙げると、@法曹が企業でコンプライアンス実現のための役割を担うといっても、そのような役割は誰にでも果たせるわけではない。また企業内に入っていける法曹は限られている。多くの一般的な法曹はどのような形で企業コンプライアンスに関わっていけばよいのか。A経営陣がコンプライアンスの必要性を自覚し、それを末端まで浸透させようとしても、現場が自主的に取り組むようにならないと、コンプライアンスは十分に徹底されない。末端の現場にまでコンプライアンスを浸透させるにはどうしたらよいのか。B社会的要請相互の矛盾に関して、独禁法と労働法とのトレードオフの関係について言及があったが、このトレードオフ関係の一つの解決策として経済法学者は「独禁法解釈において消費者利益を考慮する」という考え方を打ち出してきた。この考え方についてはどのように評価されるか。Cアメリカではルールが不合理な場合にはルールをよくしていこうという考え方があるが、日本にはそうした考え方があまり定着しているとは言えない。不合理なルールを是正できるようにするにはそのためのルートが設けられなければならないが、どのような方法が考えられるか。このように、答えにくい質問が次々に出されたにも拘わらず、郷原先生がてきぱきと回答されていたのが印象的でした。
今回の大阪大学企業コンプライアンス研究会からは本当に多くの示唆を頂きました。ご多忙にも拘わらず貴重なお話を頂いた郷原先生、そして研究会でディスカッションにご参加いただいたメンバーのみなさま、本当にありがとうございました。
[福井康太]