国内排出量取引制度の意義と法曹の役割

2008年6月20日(金)18時から20時すぎまで、大阪大学豊中キャンパス法経講義棟3階5番講義室にて、講演会「法曹の新職域グランドデザイン構築:国内排出量取引制度の意義と法曹の役割」が開催されました。本講演会は、科学研究費補助金基盤研究A「法曹の新職域グランドデザイン構築」の研究活動の一環として行われました。講演者は森・濱田松本法律事務所の武川丈士(むかわ・たけし)弁護士。武川先生は東京大学在学中に司法試験に合格され、1998年に弁護士登録。その後は不動産の流動化・証券化を中心とする業務に従事され、01年に米国留学。03〜04年に三井物産に出向。この頃から排出権取引に関与するようになり、排出権取引に関する論文を執筆され、この領域の第一人者と目されるようになります。05年からは環境省や経済産業省で排出権取引に関する検討会の委員を歴任しておられます。タイムリーな問題に関する第一人者による講演会ということで、80名以上の参加者を得て大盛会でした。

武川先生のご講演は、理路整然として非常に分かりやすいものでした。まず導入として、地球温暖化の現状と、温暖化対策に本格的に取り組まざるを得なくなった「CO2本位制社会」のインパクトを紹介され、フロアとの問題意識の共有化を図った上で、排出権取引についての基本的理解へと話を進められました。排出権取引制度(Cap&Trade制度:「排出権取引」、「排出量取引」、「排出枠取引」の用語は内容的に異ならないので、互換的に使用)とは、各主体(国家や事業者)に一定のCO2排出上限(枠)を定めるとともに、削減努力によって排出枠が余った主体にはそれを売却することを認め、他方、削減にコストがかかる主体には足りない枠の購入を認めることによって、枠内での排出を義務づけ、最終的に総排出量を目標量に収めようとする制度です。比較的にCO2削減コストのかからない主体と削減コストがかかる主体の間での排出枠の取引を認めることで、全体としてCO2削減を効率化することを目論む制度であると言えます。この制度は、排出上限に関する実効的な法的枠組が存在することが大前提とするものです。したがって、その制度設計と運用には法曹の役割が極めて重要となります。

武川丈士弁護士

現在のところ、わが国の排出権取引については条約レベルの京都議定書の枠組(京都メカニズム:クリーン開発メカニズム、共同実施、国際排出権取引を柱とする)は存在するものの、法律レベルのCap&Trade制度は未導入です。条約は国に対する義務づけをするもので、民間企業に対する義務づけ効力はありません。それにもかかわらず、日本企業は、転売目的やCap制導入を見越した一種の「保険」という意識から、さらにはCSRの一環として、そして「経団連自主行動計画」に縛られて、京都メカニズムの実施に真剣に取り組んでいます。日本の産業界は政府と一体となって経団連自主行動計画の策定を行い、目標設定に事実上コミットしており、経団連自主行動計画の目標が達成されなかった場合には、環境税や直接上限の設定といったより重い規制を課されても受忍せざるを得ない立場にあります。それゆえに「経団連自主行動計画」は事実上京都メカニズムを強制する効力を持つに至っています。経団連自主行動計画の達成のために京都メカニズムを利用する(すなわち産業界が政府に対して無償で京都クレジットを譲渡する)ことが認められており、このために産業界は京都メカニズムに取り組まざるをえないわけです。政府は「地球温暖化対策の推進に関する法律」(温対法)平成17年改正で排出量算定報告公開制度を導入するとともに、18年改正で同法を京都メカニズムの基本法とし、取引ルールの整備(排出権の法的性質に関する整理、国別登録簿制度の整備、排出権取引に関する規律の明確化)を進めています。もっとも、武川先生は、制度整備の場面に法曹の関与が必ずしも十分でなかったために、その法的な詰めは不十分なものに留まっているとされます。どういうことなのでしょうか。

聴き入る聴衆

京都メカニズムで取引対象となる排出量(京都クレジット)の法的性質は様々な観点から検討する必要があります。憲法との関係では営業の自由(憲法22条)や財産権の制約に対する補償の要否(憲法29条3項)、民法との関係では「京都クレジット」の譲渡性の有無といった論点があります。さらに、排出量の原始的帰属は国有財産法との関係で問題となります。そもそも「京都クレジット」に財産権性があるかどうかという論点は制度の根本に関わってきます。「京都クレジット」の財産権性については、排出量には管理可能性があり取引の対象となるということで、実務上は動産類似の財産権という考え方が主流です。温対法平成18年改正に関する検討会での議論を通じて、「京都クレジット」の法的性格については、動産類似の財産権として財産権性が承認され、譲渡や信託の対象となることが確認されました。しかし、動産に関して適用される法的規律がすべて適用されるわけではなく、ケースバイケースの検討が必要とされます。さらに、割当量口座簿登録の法的効力も重要な問題です。というのも排出量の二重譲渡といった問題をどのように処理するかという問題があるからです。これについては、口座簿登録は効力要件とされ、登録には公信力も付与されました。とはいえ、これらの議論の整理はなお大枠的なレベルに留まり、個別の問題は実務上の判断の積み重ねに委ねられることになりました。以上のような整理を背景として、「京都クレジット」を対象とする取引制度の整備も急ピッチで進められ、目下、金融商品取引法や銀行法等の改正により排出権取引の業法上の位置づけも明らかにされつつあります。さらには東京証券取引所が排出権取引の検討会を立ち上げ、本格的に国内排出枠取引制度(国内キャップ・アンド・トレード制度)導入が検討される段階になっています。

武川先生は、国内排出枠取引制度の今後についてはまだまだ不透明な情勢だとされます。環境省と経済産業省は別々に制度の検討を行っており、統合的な対応は遅れています。今年6月9日には首相官邸は福田ビジョンを発表し、2050年までに達成すべき長期目標(2050年までに60〜80%削減)を明らかにしましたが、国内排出枠取引制度の本格導入については曖昧な態度をとっています。他方、自治体レベルで東京都が都内の事業者を対象とした排出権取引制度の導入を提案し(6月10日に条例案提出)、他の自治体もこれに追随する動きを見せています。このままでは排出権が乱立することになり、市場に非効率が生じかねません。現段階では、制度の開始時期や対象施設、キャップの初期割当の方法も確定されていません。実施に当たっては国際競争下にある産業に対する配慮(関税措置など)も必要です。排出枠のバンキングやボローイングの制度も導入が求められます。排出枠の初期割当の法的位置づけ、具体的な取引方法や口座簿のあり方、業法規制、取引者保護といった問題についても十分な検討が必要です。

武川先生は、講演の締めくくりとして国内排出枠取引制度における法曹の役割について説明されました。排出枠関連ビジネスで排出枠取得契約や売買契約を作成するためには弁護士の関与は重要です。金融機関等が取引に関わる場合には業法対応の問題もあります。排出権関連の金融商品開発にあたっては法的なフレーム作りに弁護士の関与は不可欠でしょう。さらに関連立法の策定過程にも取引実務の経験のある弁護士の関与は必要です。実際、企業は国内排出枠取引制度が重要なリスク要因ないし経営戦略上の重要な要素となることを見越して、このような問題に精通した弁護士に対して熱い視線を送っているそうです。国内排出枠取引制度が新たな弁護士需要を生むことは明らかです。他方、排出権取引を専門的に扱う日本の弁護士はまだまだ不足しています(多く見積もっても10名以内、一定水準をクリアーしている弁護士は3〜4名)。制度設計期であることから官公庁にも弁護士が必要なはずですが、実際にはほとんどいないのが実情です。とくに、国際交渉の場面に弁護士がいないのは致命的だとされます。制度整備に携わる関係者に民事法・取引法の理解が不足しているために、国内排出枠取引制度は問題の多い制度として走り出しつつあります。このような状況を改善するためには、民事法・取引法に通じた意欲的な法曹の関与がさらに求められるというわけです。

これから弁護士になろうとする者は、既存のルールに対する社会的ニーズのみならず、新しいルールに対する社会的ニーズにも敏感となり、そのような新しい社会的ニーズを基本的な法知識や実務経験と結びつけることによって新しい職域を切り開き、社会に対して貢献することが求められます。そのためには法科大学院の学生のみなさんは基本をきちんと身につける必要があるということで、武川講演は締めくくられました。

武川講演を受けて、私が5分間ほどの短いコメントを付けました。私のコメントでは、国内排出枠取引のように新しい法曹の職域は潜在的には広がり続けており、このような潜在的な職域をいかに発掘して実際に切り開いていくかがこれからの弁護士の課題であること、例えば、現段階では国内排出枠取引の制度構築が問題なのだろうが、取引制度が本格始動してからは紛争解決に対するニーズも生まれてくるはずであり、そこを目指す弁護士が出てきて然るべきであること、そのような職域に進出するためには幅広い法的知識を融合させることが必要であり、例えば(武川弁護士のように)ファイナンス法や取引法の知識、環境法の知識、資源エネルギー法の知識を融合させることが求められること、そして何より、新しい職務に関するニーズを読み取り、それに適応して仕事を生み出すことができる能力が求められることを述べ、最後に、新しい職域で活躍できる優れた弁護士になるために、新人弁護士が行うべきことは何かということを質問しておきました。

質問する阪大生

質問する阪大生

質疑応答では、武川先生は、まず私の質問に答えて、弁護士の将来は最初の3年間で決まるのであり、最初の3年間は優秀な先輩・同僚の下で必死に仕事をすることが必要だというお話をされました。森・濱田松本法律事務所は新人を徹底的に鍛えることで有名ですが、そうした特訓を通じてすばらしい弁護士がたくさん輩出されているというのは宜なるかなです。フロアからも様々な質問が出されました。@排出権の原始的帰属についてもう少し教えて欲しい(回答:中国では明文で排出枠が国に原始的に帰属すると明文化されるも、わが国では明文はない)。A排出権の国際的な取引における法適用に関して具体的に問題となっていることは何か(回答:例えば、日本の温対法であれば、記録を信頼して取引を行った者は善意取得の規定によって保護される。しかし、排出権が日本国外から日本国内に譲渡される取引においては善意取得の規定が適用されないことが明文で規定されている。かかる例外規定が置かれた趣旨は、(i)こうした局面においては善意者保護が全くなされないという趣旨なのか、(ii)それとも国際的な排出権の移転の場面においては日本の国内法を及ぼすべきではなく、国際公法秩序に解決を委ねることを前提に国内法の適用を控えたということなのか、必ずしも明らかではない。このように、排出権の国際的な取引においては、国際公法、国際私法上のルールが錯綜し、いまだに決まっていないことが多い。)。B行政による制度設計の場面に法律家が関与することの意味はどのような点にあるのか、これまでは行政官だけでやってきたがそれでは十分でなくなってきているという意味なのか(回答:行政官の能力は決して低くはないが、民法や取引法の知識は行政官ではどうしても足りない。今日の立法活動では実務的処理の感覚がなければ策定できない制度が増えており、弁護士が関与する必要性は高まっている)。C排出権取引制度は温暖化対策にとって本当に実効性があるのか、現在の制度では、排出枠の初期割当量がそもそも温室効果ガスの増加を前提とした水準にあるために、排出量が増え続ける点では変わりがないのではないか(回答:確かに制度のスタート時点ではその通りだが、排出量取引で技術開発のインセンティブが働けば、将来CO2発生量を現在の2分の1にする技術が開発されて吸収量と調和する可能性もある)。D国境措置による批准国・非批准国間の利害調整は実効性がないのではないか(回答:一国だけでは実効性はなく、各国の連携が必要)。E審議会等に招かれるような弁護士になるためにはどうしたらよいのか(回答:何もやらなければ呼ばれることはない。著書や論文を執筆してその道に精通していることをアピールすることは重要。大手の事務所に所属していることも意味があると思う)。F排出権取引に関わる弁護士の数が多くても10人に満たず、一定水準をクリアーするのは3〜4人という数は十分なのか(回答:弁護士がそれで稼いでいくことができるだけのニーズという点からすれば、3〜4人というのは調和的な人数だろうが、潜在的なニーズを考えれば全く足りていない)。G弁護士が仕事をする上では「人間力」も必要なのではないか(回答:「人間力」も必要かもしれないが、それはすべての仕事に必要なものでとくに弁護士に求められる能力というわけではない。それは法科大学院だけで身につけるべき能力ではない。法科大学院では基本的な法的思考を身につけて欲しい)。H国内キャップ・アンド・トレード制度を計画的に進めるためにはどうしたらよいのか(回答:まずは乱立しているものをまとめるビジョンが必要。それぞれの制度が部分最適を求めれば将来に混乱をもたらすだけ)。Iリーガルマインドとは何か(回答:一言で答えるのは難しいが、問題点を直感的に把握し、それを論理的に相手に伝える能力が重要だろう。リーガルマインドは、優秀な先輩や同僚と一緒にしっかりした仕事をすることを通じてしか涵養されない)。J東京都だけで条例で排出枠取引制度を作っても、排出企業が逃げ出すだけで実効性は発揮できないのではないのか(回答:そうした懸念は理論的には存在し、カーボンリーケージと呼ばれている。この懸念に対しては、企業は総合的に様々なコストを勘案して移転を決めるのであり、排出枠だけが決め手となるわけではないとの反論がなされている。東京都の試算ではそれほど移転する企業は出ないと見られている)。中には素朴な質問もありましたが、武川先生は、すべての質問に誠実に答えておられました。フロアの参加者による大きな拍手で講演会は終わりました。

質問する阪大生

講演会終了後、法科大学院や法学研究科の学生を交えて懇親会が行われたのですが、その折りにも、武川先生は司法試験の勉強の進め方や弁護士が若いうちに経験しなければならないことについて熱心に語っておられました。参加した学生は多くの示唆を得たのではないかと思います。武川先生、ご多忙中にもかかわらず、夜遅くまで私どもの企画におつきあい頂きありがとうございました。今後とも大阪大学をよろしくお願いします。

[福井 康太]