コンプライアンスと法 ― 法で法を守らせる
T.はじめに
わが国でも「コンプライアンス」という言葉が定着してきた。何を意味するのかは色々な理解がありうるが、少なくとも法令遵守は含まれるだろう。単に法を守りなさいと一般的に要請されるだけではなく、一定の会社は、会社法・金融商品取引法により内部統制システムの整備や報告が義務づけられる。その一環として法令遵守のための体制を整備することも法的に義務づけられる。ここでは、その詳細ではなく、このようなことが持つ意味について考えてみたい。
上記のことは、法を遵守し、かつ、そのための一定の体制を作ること自体が法的な義務であることを意味している。「法を守れ」なんて当たり前で、だからどうしたのだと思われるかもしれない。しかし、法を守ること、そしてそのための体制を作るように法で義務づけるというのは何だか不思議な感じはしないだろうか。
U.法を守る義務
そもそも、多くの法令は自らを守れと直接命じているよりも、「〜したら…という効果が生じる」あるいは「〜しなければならない/してはならない」+「それに違反したら…という制裁が課される」という内容のものである。これだけだと、そこで定められている効果や制裁さえ甘受すれば、別に命じられていることに反しても構わないようにもみえる。例えば、損害賠償や刑罰を甘受するのであれば、不法行為や犯罪に該当することもできそうである。これは荒唐無稽に思えるかもしれないが、サンクションが軽く、その行為が有用であり、反社会性が低い場合は現実的なものとなる(ちなみに、法令遵守の体制の整備についてもこのようにサンクションを甘受すれば放置できると読めなくはないが、サンクションの大きさを踏まえると、現実に上場会社がそのように行動するのは考えにくい)。殺人などの場合はこのような発想はとりえないだろうが、名誉毀損や侮辱(これは刑罰が科され、不法行為にもなる)を覚悟して報道する、罰金や反則金を意識しながら車のスピードを調整するということは現実にもある。
法を守ること自体を義務づけるのは、こういった行為に対する否定的な評価の現われでもある。多くの場合はこれが適切だろう。特に企業に関しては、社会の中での重要性や影響力が高まってくると、法による制限を求める声が強くなるだろう。しかし、法それ自体の妥当性が問われる場合、法に反する可能性のある行為の有用性が非常に高いときや社会的な評価が変わり、その行為が反社会的でないといえるようになったときにも、サンクションを甘受して一定の行為をとる自由を否定すべきだろうか。
III.法を守ることへの投資
もっとも、上記のことは「法を守る義務」一般に関するもので、法令遵守の体制の整備を義務づけること特有のものではないかもしれない。では、法を守るための体制の整備を義務づけるというのはどういうことか?これは、法の遵守のために一定のプロセスを踏み、システムを構築することを義務づけるものである。つまり、結果的に法に反していなければよい(私たち個人は多くの場合そうであろう)のではなく、法を守ること自体に常に一定の投資を行うように義務づけていることになる。
一方で、このようなプロセスの整備によって、会社や役員は法的リスクを多少なりとも回避できるが、他方で、他の法令に反しておらず、取り立てて不都合な結果が生じていなくても、法令を遵守する体制の不備自体が法令違反となる。すなわち、普段から法を守ろうとすることに投資していないことが否定的に評価されることになる。会社法などの関連法令では法令遵守の体制について事細かに定めているわけではないが、不備を指摘されるのをおそれると、どうしても画一的な基準に頼りたくなったり、少し(?)余計に投資することになる。あるいは、過剰に「違反」をおそれることになりかねない。実際、コンプライアンスのために過剰なペーパーワークが必要で業務に影響が出る、内部統制報告書に関する誤解が生じて金融庁がこれを修正しようとするといったことが生じている。
もちろん、多くの(望ましい)法がよりきちんと遵守されるようになるのは社会的に望ましいことである。ただ、こういったことを踏まえると、one size fit allの画一的な基準を求めたり、そうでなくても実務上提唱されている体制や基準を画一的に当てはめたり、運用するのはあまり望ましくないことが示唆される。また、報道などを通じて企業の行動をみる側も、コンプライアンスの体制に不備があると指摘された=違法=悪いことをしているといった単純な評価をするのではなく、本当に「悪いこと」かを考える必要があるだろう。そうでないと、過大な無駄が生じたり、結局は法令遵守など面倒な作業に過ぎないとか、とにかく何らかの権威を持った機関や団体のいうことを実施すればよいのだという発想になりかねない。
W.結論
法令遵守のための体制を整備するように義務づけるというのは、(1)法を守ることそれ自体を義務づけ、(2)法を守るためのプロセスへの投資を一定程度義務づけることを意味する。(1)は多くの場合は常識と合致し当たり前だが、常にそうであるとは限らない、(2)は過剰投資が生じる可能性があり、これは現在実際に起きていることの背景にも存在すると考えられ、過剰投資への対処が問題となっているといえる。
[大阪大学大学院・法学研究科・助教 松中 学 ]